8月16日
ローズゼラニウム
― 恋わずらい ―
イライラする。
どうしようもなく動悸が高ぶる。
ほんの少し話しているだけなのに…なんで?
好き。
あいつにそんな感情を持ち始めたのはいつからだったのだろうか。
わからない。
随分前からだったような気もするし、自覚したつい最近のような気もする。
好き、好き、好き。
自覚して認めてからの私は、あいつへの好きでどうにかなりそうなくらいだ。
ぼっとしてるつもりでも、本当はあいつの姿を探していて。
休憩に職場仲間と話している間でも、あいつの行動を探っていて。
この広い職場の中で静々と歩きながら耳を立てている。
あいつが来ていないか確かめながら。
「!」
「主上。…また、そのような格好で。」
中庭には夜着を掛けただけの王の姿。
この男、彩雲国の王であり、今年で22になるはずだか…どうも、子供気分が抜けきれていない。
こうして夜な夜な寝台を抜け出し、そのままの格好で出歩く。
風邪をひいたことはないようだが、後宮には私や珠翠のような女官だけでないことを忘れないで欲しい。
そのような姿で出歩けば、既成事実を!と意気込んでいる貴族出身の女官たちの獲物になると言うのに…。
「ほら、今日はいい月だぞ。」
「それは、良うございました。しかし主上、いつも言っていますよね?」
「わかっているのだ、…気をつける。」
「では、こちらを。」
「準備がいいのだな。」
こんなこともあろうかと一枚持って歩いていてよかった。
いや、本当なら必要ないことが一番いいのだけど。
しぶしぶと上着を受け取った劉輝を見て、はにこりと微笑んだ。
「月見酒でもいたしますか?」
「…そうだな。」
「畏まりました。」
「の琴も聴きたい。だめか?」
「…そうですね、最近は頑張っているようですからご褒美ですよ。」
「うむ。」
劉輝が先頭をきって歩いて行く。その後を追うようにが歩く。
そうして、劉輝の寝室へと着いた時、あの人が…いた。
「楸瑛?どうしたのだ?」
「いえ、…すこし様子を見にきただけです。」
「楸瑛も一緒に飲まないか?今日は月見酒だ。」
「彼女は、よろしいのですか?」
「ん?とはそういう関係じゃないぞ!優しいお姉さんなのだ。」
「はいはい、知っていますよ。」
必死に否定する劉輝をみてクスクスと笑う楸瑛。
どうして、どうして、此処に?
どうして此処に貴方がいるの?楸瑛・・・。
一瞬にして崩れてしまう。こんなにも脆い自分だったなんて思いもしなかった。
落ち着いて、ゆっくりとボロを出さないように。
「それでは、二人分の杯を用意してまいります。」
「あぁ、悪いね。」
「の分もだから三人分だぞ?」
「いえ、私は仕事中ですから。」
今でもギリギリの状態なのに、お酒が入ったらどうなってしまうのだろう。
今回は劉輝には悪いが諦めてもらうしかない。
「それに、酔っていては音を間違えるかもしれませんし。」
「…ん。わかったのだ。」
劉輝が寝室へと行き、私は寝酒を取りに行く。
見られている。
後ろから突き刺すような視線を感じる。・・・1.2.3.
ゆっくりと数え振り向くと、こちらを見てにこりと笑っているあいつがいた。
「…なにか?なにか、御用でしょうか。藍将軍。」
「いいえ、ただ。あなたが楽器を奏でられるのは珍しいことだと思っただけのことです。」
「最近、主上が頑張っているようですから。少しでもと思いまして。」
「そうですか。失礼、仕事の邪魔をしてしまったようですね。」
「いえ、…それでは。」
頭を下げ、寝酒の用意をしてある部屋へと進む。
好き。
好き、好き、好き。
煩い、煩い、煩い。ドキドキと動悸が煩い。
呼吸が乱れる。
寝酒の用意がされている。杯は二つ。酒の銘柄は華焔楼。
…珠翠ったら、準備がいいわ。
落ち着いた。大丈夫。あいつに見られながら琴を演奏してもミスらない。
「主上、用意が出来ました。」
「うむ。・・・今日はなんだ?」
「今日は華焔楼でございます。…曲は何に致しましょう?」
「の好きな曲を頼む。」
「畏まりました。」
劉輝、楸瑛の二人と十分に間隔をとる。
二人は月明かりの窓辺で杯を傾けているが、は闇の中に。
それでは、と一言置いて琴を鳴らす。
初めは静かに。訪れを告げる。
恋想送火…か。
相変わらず綺麗な音を出す。そして音に想いをのせる。
昔からそうだった。の紡ぎだす音は耳に残り、心に直接話しかける。
すっと、弦から手が放され音が止む。終演だ。
「見事だったぞ。」
「ありがとうございます。」
「いいものを聴かせて頂きました。」
「いぇ。」
「楸瑛もそう思うか!」
「えぇ、彼女はとても上手い。」
「今日の恋想送火はいつもと違ったように感じたのだが…」
劉輝がこちらを尋ねるように見る。
ヤバイ。
音に出ていたのか。あんなにも細心の注意を払ったと言うのに。
冷や汗が背中を一筋落ちた。
「…今日は、藍将軍もお見えでしたので少し変えてみました。」
「そうか。」
「・・・。」
「良かったのだ。の一面が見えて。今夜はもういい、下がれ。」
「はい、程々にお願いしますね。・・・それでは。」
あぁ、あの敏い王のことだ。
私の気持ちに感ずいたのかもしれない。
私に対して言われた言葉は何一つない。それでも、世辞だとわかっていても向けられた瞳と言葉は私を満たす。
そして、狂わす。
好き。
好き、好き、好き。
この言葉は届いてしまったのだろうか。
好き、息も出来ないほどに。
好き、何も考えられないほどに。
好き、これだけで私を廃人にしてしまう貴方。
これは『恋わずらい』。
後書き
恋煩いだったり、恋患いだったり…